社会学者 岸政彦の小説。
こういう言い方は著者に対して失礼にあたるかもしれませんが、
どうして記しておきたいのはこの小説が学者の片手間なんて範疇にはないということ。
しっかりと純文学として面白いし、著者の強みが出た魅力ある作品になっています。
物凄く個人的な感覚が鋭敏に感じられるという純文学らしい面と、
社会という観点がしっかりと作品内に根付いているという
ややもすると文学から見落とされがちな面。
この両面が感じられるのがとても新鮮で魅力的でした。
ミュージシャンである主人公の、社会との結びつきが興味深いです。
独特なライフスタイルに思われがちな職業でも、当たり前に音楽以外の時間があるんですよね。
自分の技術に向き合うことも、セッションする相手との関わりも必要であることは
他の職業と何ら変わりない。
こうした静かな空気を纏う作品からは経済という観点が抜けがちですが、
この小説はその描写も漏らしていません。

社会学はきっとこの小説に立体感をもたらしていますし、
著者がミュージシャンの側面も持っていることが小説に温度を与えています。
著者が持つ見識が小説に付加価値を与えている好例だと感じました。
難点というべきか、読んでいて引っ掛かる点は、会話の場面。
二人が次々と言葉を発するような際に、鉤括弧はあまり用いられません。
スピード感や臨場感は増すのですが、頭の中でどちらの人物の発言なのか戸惑うことがありました。
得られるものと失われるものがあるのは当然としても、
読者側の慣れという視点からすれば、やや読みを妨げる要素ではないでしょうか。
寂しさや空洞を抱えた二人の恋愛が中心に据えられていますが、
印象的なのは二人により語られる記憶。
タイトルにも関わる、記憶の挿入が内容も描写も素晴らしいんです。
岸さんの名前、「東京の生活史」という分厚い本で目にしたことがある読書好きは多いでしょう。
あの本にトライするのはなかなか覚悟がいるようには思うのですが、
この小説は文学好きなら、きっとあっという間に読み終えてしまうはずです。

