主な登場人物は高校の同級生だった三人。
プロの芸人としてコンビを組む二人と、彼らをテレビや配信越しに見つめる一人。
お笑い芸人を小説の題材として据えるのはとても難しいことではないかと思う。
有名なところでは又吉直樹「火花」が思い浮かぶが、芸人を登場させて、
その人物が売れっ子になっている場面を描くにはネタや振る舞いを書くことにより、
売れるに値する面白さがあることを示さねばならない。
あるいはその面白さがまやかしであるとするなら、そういったギャグなり言動を書かねばならない。
火花 (文春文庫)又吉さんがそれを成し得た理由には彼が作家である以前に芸人であるという
特異性があったのだと思うが、
この「おもろい以外いらんねん」では、作者の大前粟生さんは、まやかしみたいなものも書き、
そしてある種のネタやフリートークが持つ不気味さや不愉快さ、露悪性をも書いている。
なかなか芸人には踏み込みづらい部分ではないかと感じる。
そしてその踏み込みづらさもまた不気味さに繋がるのだろう。
数年前に、人を傷つけない笑いという言葉が流行った。
きっとその代表格とされたコンビたちの意図も離れて、独り歩きしたその言葉は、
時代性を反映した共感も、それに対する反発も、そもそもの面白さを巡る評価も絡み合った末に
やがてあまり耳にしなくなった。
では、人を傷つける笑いこそが面白いと結論づけられたのかというと、
多分そういうことでもないのだろうと思う。
この小説には「人を傷つけない笑い」もコロナ禍の中でコンビ間に置かれたアクリル板も、
劇場が閉鎖され配信で収益を上げようとする姿も書かれている。
何となくぼんやりとして可視化されなかった笑いに傷つけられる人の姿も、
傷つけるような言葉を発する芸人の心理も書かれている。
それらが正しいものなのかはわからないが、時代やブームみたいなもので
括られて、やがて消えてゆく実態みたいなものが小説に捉えらえれている。
登場人物たちが作り上げんとする笑いが面白いものなのかは正直なところ、わからない。
しかし、この小説が言語化しているものを読むのは面白かった。
読むことが考える契機になるという、読書の持つ効用を感じた作品だった。